群馬ゆかりの美術家 山口 薫

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(第1回)

   群馬が生んだ偉大な画家というイメージを、山口薫に対して群馬県人ならば持っている。多くの人が郷里の画家の代表として相応しい人物であるとまた考えている。「無口であるが心温かい」とは、『群馬の近代美術』(みやま文庫81)のなかの豊田一男の、山口薫評のほんの一部であるが、残された多くの絵を見ても、その色彩や形象から、その形容句は正鵠を得ているとおもう。山口薫の絵を一度でも見たことのある人ならば、ほのぼのとした色合いやフォルムが目に焼き付けられて二度と忘れることはないだろう。それは言葉をもたないリリシズムであり、音をもたないメロディーである。そうであるからこそ、平面作品である絵画にそうとは思えない感動を与え見る人に忘れがたくしているのだろう。群馬に美術館ができたのは昭和49年10月(1974年)である。10月17日より11月10日まで開館記念展が開かれ、第一部の館蔵代表洋画展には郷土出身の三名の画家、すなわち湯浅一郎、山口薫、福沢一郎の作品が第2展示室に、それぞれ20点あまりが展示された。私は満25歳で、山口薫のまとまった絵(24点)にはじめて出会った。翌年(1975年)、本格的な「山口薫展」(154点)が開催されている。これも見た。その10年後、昭和60年(1985年)にも「山口薫展」が開催されたが、だんだん私のなかで山口薫作品に対する思いがマイナス面にイメージされてきたのである。簡単に言えば嫌いではないが好きでもなくなって来たのである。良いものも見飽きるのか、あるいは食傷気味にでもなったのだろうか。はじめは、そんな風にも考えて見たのであった。また、山口薫の小品を持つと自慢する輩の、さいきん一号幾ら上がったとか下がったとか、値動きを注視するような卑しい顔を見ると、投機とはほんらい無関係であるはずの山口薫の絵までが、金まみれの薄汚れたものに見えてきたのだった。世の中はバブル時代に入っていた。絵の見方すら知らない人々が絵画趣味を気取り、絵の値段を地価の騰貴と同様に思いなして、にわかに美術愛好家になりコレクターになった。ゴッホの『ひまわり』がとうとう57億円の高値で日本企業に購入されたのは、昭和62年(1987年)のことである。全国的に画廊が雨後の筍のようにあらわれた。バブルの金あまりが美術・骨董の世界まで押し寄せて、一般人までが投機的な美術品の蒐集を始めたのである。美術館も数を増し、海外の一流美術品も大量に国内に買い込まれて、また三大美術館等の秘蔵作品も初公開されたりして、空前の美術ブームが到来したのだった。繰り返すが、美術の投機活動は頂点に達し、国内各地に多くの美術館が新設され、各種展覧会が開催されてブームにさらに火を付けた。また都市の大手だけでなく、地方のデパートでさえ専門の美術購買部をもうけ店員に得意先回りをさせて、古今の洋画、日本画、工芸品を顧客の隅々まで売りまくったのである。さらに、こうしたブームにあたかも迎合するように美学者、評論家、学芸員らが、美術市場の御用学者あるいは水先案内人となって、さらにブームを煽ったのだ。いわば美術市場の宣伝広告隊である。物はピンからキリまで飛ぶように売れたのだから関係者の笑いは毎夜止まらなかったであろう。

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(第3回)

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東京美術学校在学時の『卓上の静物』・『動物園の風景』や卒業制作『自画像』などを見ると、いかに山口薫の世代(というより日本の美術)が西欧の美術の影響を受けてきたかが解かる。明治維新の前から、西欧列強のアジア進出は彼我の武力の差を日本人にまざまざと見せつけた。開国を迫られ強い統一国家が望まれたのである。明治維新は、確かに長州や薩摩による統一ではあったが、これを薩長土肥の官軍と徳川幕府軍との間だけの戦争と捉えるのはいまや困難である。その証拠に、徳川の親藩である松平の前橋藩なども早々と恭順を表明し、親類筋の会津藩と戦火を交えている。他の藩でも同様の動きが多く見られる。これらの藩は薩長土肥の官軍の実力が恐ろしいだけで寝返ったわけではない。薩長土肥でなくとも明治維新への流れは、遅かれ早かれ具体化したはずである。開国ないし近代的統一国家は国民的希求であったというべきである。と、このように明治維新の前後のことなどを書くと、山口薫の絵と何か繋がりでもあるのかと問われそうである。本題とは関係ないではないかと。しかし、これが山口薫に限らず日本の画家と密接に関連するのである。大雑把に言えば、日本の画家は、他の多くの分野もそうであるように、明治維新の前後の開国および統一国家への国民的希求の範囲を脱けきれないでいたのである。現在でも、その空気が濃厚である。東京美術学校の存立自体が、官立の美術学校の設置希求から始まっている。西欧の真似事で、統一国家の国力というか実力の証として設立された。東京美術学校の歴史の始まり(1887年・明治20年)である。日本という国力(国威)・実効力の示顕化だった。日本美術の保護・育成が国威の示顕にほかならなかった。したがって、初め日本画・木彫・工芸の三科であった。高村光太郎の父、高村光雲などは木彫の設立時からの教授である。山口薫の在籍した洋画科が、高橋由一の弟子である原田直次郎らの運動によって設立されたのは七、八年後のことである。ちなみに、高橋由一は、芳賀徹の著書『絵画の領分』によれば、幕末明治の変動を踏まえた上で「洋画道の志士」と呼んで讃えられている。まことに相応しい命名であると思う。高橋由一や原田直次郎の作品を見ると、日本の土壌に根ざした明治の意気込みが感じられる。立派な先駆者たちといえる。では山口薫はこの流れかというと、そうではないのである。高橋由一や原田直次郎は「旧派」として「新派」の黒田清輝らに取って代わられ、洋画科は「新派」の流れとなる。ただ黒田清輝自身はこの「旧派」「新派」の分類には批判的であったようであるが、日本の洋画の主流が日本の土壌に根ざしたものから、西欧の思潮を理念とした、端的に言えばヨーロッパの色に染まったものになったことは間違いない。明治31年(1898年)に黒田清輝は東京美術学校教授に就任している。以来、東京美術学校洋画科は、理念を西欧にもとめ、常に西欧の思潮に敏感であれと、日本美術界の洋画分野の要として有為な画家を輩出し、また美術教育の面おいてもに多大な功績を遺した、と賞讃される。西欧の美術全集を繙けば、山口薫の初期作品と似たような絵が必ずあるのも、黒田清輝の流れであればまた当然なことである。

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  山口薫の育った時代背景をみる上で、貴重資料の一つに本人の絵日記がある。これをきちんと本にしたものが、山口薫の甥にあたる(といっても2歳しかちがわない)北橘村の今井善一郎によって、氏の手許にあった絵日記を、いろいろと経緯はあったようであるが、前橋市の煥乎堂から昭和44年に刊行された『山口薫中学時代絵日記』である。その内容は大正11年(1922年)、高崎中学時代の、15歳の6月15日から11月6日までの絵日記と「カゴノ小鳥 第二號」と題された画文集からなる。絵日記はほとんど黒の単色であり、画文集は多色である。大きさは横18センチメートル縦12.5センチメートル、最初に1948年作の『箕輪城址』という油彩の写真と「あとがき」や註等で150数ページほどの小冊子である。因みに実物の大きさは凡そ二割方小さいようである。
「カゴノ小鳥」の制作年は記載されていないが、本の題名通り中学時代のものであろう。絵だけで比較すると画文集の方が優れていると思う。足利の田崎草雲の少年時代の絵日記などに比べると、技量の点で見劣りするが、この絵日記にも少年らしい溌剌とした生気がじゅうぶん感じられる。一つに絵を描くことが好きな利発な少年がイメージされるが、この絵日記をざっと見た後の印象はそれだけに止まらない。その時代背景に思いを致すのである。この絵日記の11月5日(日)晴、の段に「今日ハ帝展見ニ往ッタ。公会堂デ知ッタ前中ノ中村ッテイフノモ来テヰル。向フデモ此方ヲ見タ。白木屋へ行ッテ晝飯ヲ食ベ、浅草ノ金龍館ヲ見ニ行ッタ。」とある。この中で、帝展とは帝国美術院が主催した官展。公会堂とは高崎公会堂。前中ノ中村ッテイフノモとは前橋中学の中村節也。白木屋とは東京日本橋の白木屋デパート(当時から飲食店が併設されていた)。浅草ノ金龍館とはオペラ、レヴュー、軽演劇の実演、活動写真の上映等の演劇場のことである。金龍館の大正11年当時の興行主は根岸興行部で後に松竹となったが、この年にエノケンこと榎本健一がコーラスボーイとしてデビューしている。高崎公会堂では創画研究会による展覧会がよく行われていた場所で​ある。前橋中学の中村節也は明治38年11月生まれで中学入学は大正ハ年、高崎中学の山口薫は明治40年8月生まれで中学入学は大正9年である。中村節也は一家の転地で高崎の柳川町の住まいから前橋に通学していた。二人はすでに絵の展覧会で顔見知りであったのである。これより5年前の9月、前橋中学において開催された「白樺画会展」は住谷三郎らによって企画されたことは前にも述べたが、この3日間の展覧会なども大正という時代背景を抜きにしては考えられないのである。遅れて高崎の創画研究会による展覧会も、大正時代の群馬における美術の先進性を示すものである。大正時代の息吹を吸い込んで、この時代の若者たちは成長している。昭和の時代とは明らかに一線を画していることを、ベースボールやテニス、友人たちや先生方、試験風景やごく日常的な些事が描かれた山口薫の絵日記は、大正デモクラシーという時代の風潮を生の空気として伝えてくれる。先生方の中には、歌人土屋文明の恩師である村上成之(あだ名をチョクと云ったらしい)もいた。

(第6回)

山口薫の生きた時代、特にその青春時代はいわゆる大正デモクラシーの時期にあたる。この世代は前の時期とも後の時期とも、生きた時代の息吹が違っているように思う。それは前にも述べた。明治維新後の開国・富国強兵の幼年期を終え、時代の青春期を迎えたからとも言えるだろう。西欧の新思潮たる民主主義や社会主義が、新しい文化・風俗を伴って狭い島国になだれ込んで来ていた。そこには、いままでと違った青春の自由な息吹があり、若者たちも一時代前の壮士風なものも依然として持ってはいたが、浪漫的な、あるいはデカダン的な、夢想やら陶酔もまた持って、それらを味わうことも容易な境遇となった。むろん、大正時代以前の明治時代にも、浪漫主義やデカダンスはあったが、この大正時代を青少年の時期として過ごした若者たちは、前後の時代の人々とは違って、たっぷり自由の息吹が身に付いた(言葉を選べば、程よくバランスのとれた自由が身に付いた)ものになっていた、といえるだろう。『山口薫中学時代絵日記』は、その時代をよく表している。そしてそれは、その文章よりも描かれた絵によりよく表れている。後年のヒューマニックな作風(テーマも含まれるが主にその色あい)を見るうえで大きな鍵となるものであると思う。しかし、これは山口薫一人に限ったことではないのである。知識人にしろ一般大衆にしろ、この時代に青春期を過ごした若者たちは等しくそうである。維新から明治の人々の気風が彼らを育てたのであるが、ほんの十年二十年の間に、その気風は大きく変わる。これは国の国策が、富国強兵のみならず国内を思想統一してより強力な統一国家を目指したことに起因する。十年の年の差が大きな隔たりを生むことになった。私は大正デモクラシーの時代に育った世代が、社会の中で孤立して浮き上がった集団であったと思えて仕様がない。強い統一国家を目指した教育の問題もあるかも知れない。例えば、戦前の軍国主義の教育を受けた人と、戦後の民主主義の教育を受けた人の隔たりは普通考えられている以上に大きいのではないだろうか。大正デモクラシーという概念そのものが確立されていない大雑把な規定であるが、大正年間(1912年~1926年)の文化・風俗・思潮の総称と考えていいのではないか。この時代の歴史的事件としては第一次世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵、関東大震災、そして治安維持法の成立などがある。僅か14年の間であるが、自由の息吹がこの国土にあったことは間違いない。が、当時を生きてその息吹を知る人はすでにいない。直接、話を聞くことは出来ない。当然ながら過去に人はなく未来にも人はいないのである。当事者の声は現在しか聞くことは出来ない。ここまで山口薫の青少年期にあたる大正デモクラシーについて述べてきたが、美術に関連することを言うと、美術の中心である美は相対的なものであると、誤解されやすい。表現に時代の制約を受ける点は相対的であるが、美そのものは絶対的である。ドイツ的美術史観は近代化を急ぐあまりの借り物である。美とは時を超えるものであり時代的制約を受けない。西洋に黄金比があるように、日本には日本の黄金比がある。法隆寺の五重の塔、鹿苑寺、能面など黄金比に基づく絶対的美の一例である。

(第7回)

先日、ある講演会で著名な一講師がロラン・バルトの『作者の死』をあげて、作品は人格・経歴・環境・趣味・情熱・感覚等の作者の身の回りの実際はいっさい拒否してかまわないという、テクスト論をぶち上げて文学の批評論を展開した。『作者の死』ないしテクスト論は、作品を一つの複雑な構造として捉えた場合、作者はその一要素に過ぎず作品は作者の支配をうけないという、かの有名な考察である。この考察は、短く俗に要約すれば、作品を読む読者に作者の実際による影響を無視した自由を与え、無軌道な読み方まで許容するものである。また作者に対しては自らの実際を無視して作品だけを平板に提示する無責任な自由を与えるものである。そこには情緒的なしめりも作者の過去を引きずることもない無機質の荒野がひろがる。その講師は浅田彰の名前もあげた。フランス現代思想を踏まえない批評など、とるにたらない誤謬であると口調は堅かった。彼は『作者の死』・テクスト論を信条とし、芸術の各分野にも応用しているようであった。しかし、これは間違いだと私は思う。東京帝国大学以来の東大の美学・美術史よりも深刻な悪影響を及ぼさずにはおかない考え方と言っていいと思う。何となれば芸術の美は絶対的な美であるが、その美にさらに色を添え輝かすのは、ほかならぬ作者の身の回りを彩る唯一の個性であるからである。作者の個性は、持って生まれた素質をふくめ、その人格や経歴・環境や情緒などで決定されるのであり、それは作品を見る・読む・聴くさいの重要なアイテムとなり、事後(鑑賞後)の作品判定の確認材料ともなるものである。ここまで述べれば私の述旨は理解されると思うが、作者の実際を無視した批評というのは眉唾物で、無軌道な理解や無責任な創作を生み出さずには置かないと私は思う。現代アートの作品の多くにそうした無軌道や無責任を見い出すのは私一人ではないだろう。実際、現代アートは質の良いものもあるが非道い作品で溢れかえっている。「いったい、これは何だ」と唖然とさせられるガラクタばかりが列んでいる。作者ご本人は、現代アートは内面の放射だ、抑圧されたものの反動だ、無限に対する有限の主張だなどと、いろいろ理由・理屈をつけるが、作品はお粗末きわまりないのが大半なのである。そうした無節操で無責任な作者を、為すがままに放任しているのが、誰あろうテクスト論者である。作品から作者を抜き落とした作品本位の読み方(鑑賞法)では、その読みや鑑賞を読者ないし鑑賞者の自由にまかせきりで、解釈の幅や範囲をむやみにひろげて行くばかりである。言語による文学のほかに、絵画や音楽の領域を芸術テクストと呼ぶらしいが、作者を無きものとして、無機質の色や音の組成や構造の分析から有機質の作品を理解しようとするのはどだい無理というべきであろう。しかし、このテクスト論から派生した作品本位という解釈法はきわめて根強い。領域は芸術テクストとして社会の隅々までおよんでいる。世にどんな芸術作品も作者の存在があってはじめて生まれるのであり、作者の個性はその素質や環境によって決定される。また環境は時代により変化することも忘れてはいけない。作者を見ずして批評をすることはむろん誤謬であり、真の作品理解ではないということを肝に命じるべきである。

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明治維新に関しても、今までの通説の歴史観ではその本質を捉えきれないと、先に少し述べたけれども、それは近代・現代絵画の本質についても同様である。つまりは正しい正しくないという問題ではなく、現代では今までの理解では明日の展望が困難であるということである。本来、明日への橋渡しの役割を果たすべき歴史観が、明治以来ほとんど変わっていないということであり、先ずは明治政府のプロパガンダ的な域を超えていない歴史観と、続いて異邦とくに西欧の思潮をほとんど無批判に受け入れる、便宜的あるいは合理的ものの考え方をもつ国民性である。一つは為政者によって捏造された歴史観であり、また一つは国民性ともいうべき国民の便宜的な根底を無視するかのような合理性を好む性向である。この二つに因る結果とは決して言えないが、絵画の見方も、明治以来の歴史観を超え得ず未だに西欧の芸術観・芸術思潮をほぼ無批判に受け入れているのが現状ではないか。とすれば、今までの絵画の見方では、これからの絵画論ないし未来の課題を見極めることは措定することさえ、不可能であると考えられるのである。輸入された文化思潮が悪いのではないが、無批判に受け入れる、それも自らに都合の良いところだけを取り入れて、時代思潮の精神的な肝心なところは一切受け入れない。そうした文化の受容も一概に否定されるものでもないが、問題は明治政府の採った西洋かぶれの政策である。伝統的なものをすべて一様に旧き陋習のごとくみなし、自らに都合のよい勝手な判断基準をつくり、その基準からみた優等劣等のレッテルを貼った上で価値を土台から捨て去ったことである。その古き伝統が今日なお根強く残っていることについて、私たちは真実感謝しなければならないだろう。西欧の良いところを受け入れることは正しいことであるが、西欧のものにも悪いところも多くあることは誰でも分かり切っている。文化の上っ面の教条的な点と線ばかり拾って有り難がっていては、広がりの面としての西欧の良い全体像は見えないのである。中身は封建時代そのもので、外見はシルクハットにモーニング姿、しかも妙(変)ちくりんな口髭を生やした畸形な文化が、過去二千年の文化国家たる東洋の、東の果てに産まれたわけである。西欧の文化の根底をなす個人主義やデモクラティカルなものは根付かなかったと言えるだろう。それでも『民約論』の翻訳があり、自由民権運動による言論や集会の自由を求める社会運動があった。山口薫の幼少年時代は明治時代末から大正時代である。前にも述べた『山口薫中学時代絵日記』が書かれたのは大正11年であった。そして渡仏のため横浜を発ったのは昭和5年(1930年)9月であり、帰国は昭和8年(1933年)7月末であった。滞欧は3年にわたる。その間に何が起こっていたか。横浜を発った翌年の昭和6年(1931年)9月に柳条湖事件を発端に満州事変が起こり、昭和8年(1933年)2月には日本は国際連盟を脱退している。そのとき彼は、2008年の「山口薫展」の立派なカタログの年譜によれば、2月~3月半カッシス滞在とある。カッシスとは何処であるか寡聞にして知らないが、山口が彼の地(おそらく南仏か伊か)に居て、故郷たる満州事変さなかの日本をどのような気持を抱いて眺めていたか滞欧期間を暮らしていたか、当時の作品を見てみたい。

(第9回)

山口薫の滞欧期間の作品をみると、人物画はモディリアーニ、マティス、風景画はセザンヌ、ヴラマンク、ドランらの影響下を出ないように思われる。いわばモディリアーニとマティスの合体であり、『ベールをかぶった女』などはその典型であろう。『シュミーズの女』・『緑衣の女』・『ワンダ像』などにしてもそうである。しかし山口薫のものはモディリアーニやマティスとは似て非なる作品である。構図的にはマティスの窓のある絵に似ている『パリのアトリエ』にしても同様で色彩はどす黒く、マティスとは似て非なる作品である。要するに色遣いや筆のタッチなどは、美術学校時代の卒業制作『自画像』や『動物園の風景』とさして変わらないのである。モディリアーニ、マティス、セザンヌらに見られる色遣いや筆のタッチといった絵のアカデミックな土台となるような進歩の萌芽がみとめられない。悪く言えば、若気の至りの書きなぐりである。模索の青年期と言ってしまえばそれまでであるが、これは、どうしたことだろうか。大いなる疑問である。ただ滞欧期間の作品のなかで例外があって、目を瞠らせるものがある。『白い馬の像』と『裸婦四人とバラ』という作品である。ともに彫刻をモデルに画面中央に取り入れているわけであるが、前者は後年『矢』という題でふたたび作品化している。私は後年(ほぼ20年後)のものより、若描きの作品の方が良いと思うし、好きである。ケンタウロスが裸婦を抱え背中に矢を射こまれて悶えている、という神話的モチーフの表現が鮮やかである。後年の『矢』は画面分割とバルールをテーマにしており、絵としては面白いがシンボリックな神話的モチーフは後退している。後者の『裸婦四人とバラ』は、ジャン=バティスト・カルポー作の『地球を支える四つの世界』というブロンズ像がモデルである。(これはオルセー美術館にもレプリカが所蔵されているが、リュクサンブール公園の宮殿前「マルコポーロの庭」の噴水「天文の泉」の中央に位置する。)公園でのスケッチ(ないしは恐らく写真)をもとに描いているが、絵は実物の彫刻のモチーフより逸脱して、幻想的な象徴性を帯びて別物になっている。私はこの二点が好きである。幻想的、象徴的な上にロマンティックである。さて、すでに先輩格の藤田嗣治らエコール・ド・パリの時代は過ぎていた。山口薫の滞欧期(からまでの約2年8か月間)は、1929年の世界恐慌が起こり、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制が破綻しはじめた時期である。ドイツではアドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ体制打倒を掲げ、1933年1月末に首相となって政権を合法的に奪取した。ドイツにおけるナチズムの台頭である。また大恐慌はファシズムの国際的な高まりももたらした。したがって当時のヨーロッパは混沌の度あいを深めつつあった時期である。当然、政治の領域のみでなくあらゆる領域で社会全体がゆれうごきはじめた。哲学、文学、思潮も保守的ナショナリズム化すると同時に他方でファシズムは暴力的になっていく、不安は退嬰に結びつく。藤田嗣治のパリでの活躍が、山口薫ら東京美術学校の後輩に大きな刺激を与え、彼らのパリ遊学の憧れと決行を少なからず助長したことは、充分考えられることである。

(第10回)

藤田嗣治は明治十九年(一八八六年)十一月二十七日に東京牛込に生まれた。郷里の詩人萩原朔太郎が同年の同月一日の生まれであるから、その比較も面白いと思う。石川啄木とも同年である。また郷里では東国分の住谷逸治が藤田と東京美術学校の同年の卒業生である。東京美術学校卒業後、住谷は長野の教員となったが、藤田嗣治は結婚し東京にアトリエを構えたりしたのち、大正二年(一九一三年)渡仏する。その後の藤田の活躍は、一時困窮の時期もあったが、薩摩治郎八(バロン薩摩)の支援や第二次大戦後の好景気のもと華々しくパリのサロン・社交界の寵児となった。当時のパリは好景気に沸き、キュビズムやシュールレアリスムなどが現れて、現代美術の揺籃期でもあった。藤田嗣治は渡仏十二年にして大正十四年(一九二五年)に、フランスのレジオンドヌール勲章を贈られるという美術界の寵児になっていた。 こうした藤田嗣治のパリでの活躍は、二回り年下の山口薫ら東京美術学校の後輩に大きな刺激を与え、パリ遊学の憧れと実行を促したであろうことは容易に察せられる。このことは前にも書いたが、その少し前の大正十二年(一九二三年)にはヒトラーのミュンヘン一揆があり時代は世界恐慌に向かって下降する。そして世界恐慌はナチズム等の全体(独裁)主義を生んで、第二次世界大戦へと時代は向かう。明らかに藤田嗣治と山口薫の時代とはその背景が違う。大胆に言い切れば藤田の滞欧の当座のパリには物事に余裕があり、山口の時にはその余裕がなかったということである。その余裕の有る無しの一事が、先に疑問に思ったことの回答になるにちがいない。すなわち山口の滞欧期には技法等のアカデミックな学習なり修養がなかったのである。藤田嗣治のパリ時代は、東京美術学校からの影響下を脱して、技法等の修練があったのにひきかえ、山口薫にはなかったというより、その物理的な(時間的にも)余裕がなかったのだ。したがって山口薫の滞欧期間の作品は、東京美術学校からの影響の延長線上にとどまっていたと言えるだろう。 滞欧期の『白い馬の像』と『裸婦四人とバラ』という作品が、同じく滞欧期の『ベールをかぶった女』や『パリのアトリエ』といった作品に比べて、私には印象が異なって好ましく見えるのはどうしてかと考えると、前者に滞欧の成果があったという私なりの結論に達するのである。山口薫の滞欧の成果はこれであったと私は確信している。幻想性、象徴性、そしてロマンチシズムである。滞欧の成果はそれら詩的とも言えるものの確認作業であったと思う。生来もち合わせていたものの再確認を単に行なったのだと、すなわち西欧の文化の息吹の中に、異質なものとしてでなく自己同一の同質のものとして再確認したのだと思う。少し言葉を替えて簡単に言えば、生来のもって生まれた詩情を西欧の水で洗いきよめ研ぎ澄ましたのだと思う。したがって滞欧の成果は、彼のばあい技術でなく生来の詩情(抒情と言ってもよい)の再確認そのものであったにちがいないと思う。 そして、それらの成果は帰国後、思考され整理され統一されて新たな展開に結びついて行くのである。ここで断っておくが、以上の考えは一つの論理上の仮定に過ぎないが、この仮定に基づき、昭和八年(一九三三年)の帰国以降、戦後に到る作品を見てゆきたい。

(第11回)

山口薫のパリ遊学は、文字通りの遊学であって、パリに一応アトリエをもって、パリに遊び、パリを基点に西欧を旅したものである。滞欧期間は実質2年半であろうか。言うまでもなく当時はむろん空路はなく海路であったから往路に2か月ほどかかった。現代からみれば気の遠くなるような旅であった。ましてや第一次大戦後の植民地争奪の混乱時代であり、また全体主義の嵐が吹きすさぶ時代であった。しかし、そうした時代区分は、現代から過去を眺めた結果できることであって、当時を生きた人々はその時代しか知らないのであるから、当時の生活感覚としては現代よりは遥かに世界は狭く随ってのんびりとしたものであったろう。ともすると人は現代の視点で過去を見がちであるが、情報量の差は決定的で、ずっと牧歌的であったろう。23から26歳という青春期の滞欧経験は山口薫にとって幸福であった。昭和8年(1933年)7月に帰国して、世田谷上北沢にアトリエをかまえ創作活動をはじめた。昭和16年の太平洋戦争開始までの日本がどういう情況にあったか、あらためて言うまでもない。戦争へとなだれ込む社会、統制時代であり、国全体が精神昂揚の日本主義の時代である。そのような当時の情況を想像しながら、当時の山口薫の作品、例えば昭和10年の『赤城の裾野』や『着衣像』を見ると、その色彩の穏やかさに注目される。暗い色調ながら、画面全体に静謐感が行きわたって、心を落ち着かされる。F25号、P30号とほぼ同じくらいの大きさの作品であるが、共に印象的な作品である。『赤城の裾野』はとくに個人的に好きな作品である。どういうものか、何時であったかも遠い記憶の彼方のことなのだが、初めてこの絵を展覧会場で見たときに、「初めて」という気持ちがしなかったことをよく覚えている。いまでも不思議な感覚なのだが、「懐かしさ」という感覚であったろうか。この絵をどこかで見たことがあるという心持であった。いや、たしかにこの絵とは何処かで出会っていると、確信している。他人に聞いたり詳しく調べてはいないのだが、この『赤城の裾野』は美術館収蔵となる前は、たしか高崎高校(高高)の玄関なり近くの廊下に掛けられていたのではなかったか。個人的な薄暗い廊下での遠い過去の記憶がどうしてもぬぐえないのである。この絵を見ると、仮に写真であっても、胸を突きあぐる郷愁にひたることが私の場合できるのである。山口薫展に出向く楽しみの一つは、この『赤城の裾野』や馴染みの作品の前に立ち止まりじっと「ためつすがめつ眺める」という出会いの時間にある。画面の構成は単純化されている。大まかに画面を横に左から右に四つの帯が置かれているだけとも受け取れよう。上から空と薄い山脈、樹々と家々、烏の群れ立つ麦畑、そして下部に耕された黒土の田である。季節は麦の黄銅色(辛子色)からして麦秋であろう。「樹々と家々」と「黒土の田」が暗色で、他は烏の黒色以外は明色である。この絵の魅力は単純化された構成だけでは、むろんなく、その色調にあるだろう。色は地味な色合いである。現代の人の色感覚からすれば「地味過ぎる」と言ってよい。現代のテレビ等デジタル画面は鮮色度やコントラストが「ひどすぎる」が、現代の色感覚に馴れてしまった眼には、地味過ぎるでも言い足りないくらい暗く地味な色調である。この絵の色も所詮、絵の具を使った色で、自然界の色ではない。しかし、現代のテレビや写真の色よりも、断然自然に近いことは断言して置かねばならないだろう。絵を描く人や鑑賞する人に繰り返し言って置きたいが、本来、自然は地味な色合いであるということである。さらに、この絵のもつ魅力に色づかい(筆づかい)がある。すなわち、色の置き方が素直で嫌味がなく、ストレートであること、この特質のとくに「素直で嫌味のない」という点は、山口薫の絵にだいたい共通する特徴であると思う。人の場合でも「素直で嫌味のない」という特質は美点であろう。絵の場合も同じであると私は思っている。

(第12回)

パリ遊学から帰国したあとの山口薫の制作活動は旺盛であった。先に挙げた『赤城の裾野』や『着衣像』の昭和10年から、終戦までの10年間は、3年にわたる滞欧によって得たものを、彼なりの消化及び表現の試みの時期であった。滞欧によって得たものとは、特定のエコールに通って得たといった、直接的な技術のようなものではなく、目でみたもの耳で聞いたもの、いわば身体全体の膚で感じ取ったというようなもの、刺激そのものであったといえよう。かの地の絵画や彫刻等、美術作品ばかりでなく、街並みや風俗など、あらゆる身近なもの、また時代思潮の雰囲気などからの刺激も当然あったろう。そうした生の体験の再消化が帰国のあとに行われ、思考錯誤のすえの独自のモチーフを彼なりにわが物としたのだとおもう。昭和11年から12年の『神話』や『花の像』、『古羅馬の旅』、『黒曜石』、『地の星「娘と花」』などは思考錯誤のすえのモチーフの発見である。そして、昭和13年から14年の『潮騒』、『蛸壺』、『南風』など静物の静謐なる画面構成などにあらわれる初期のモチーフも一つの到達点である。また洋行・滞欧帰りの多くの画家がそうであったように、山口薫にも日本回帰の傾向がみられる。昭和14年の『紐』などが斬新な表現であるが、その代表格といえる。日本回帰というと、大げさであるが、例えば小杉放庵は、フランスから帰ると一時期、油絵を捨て墨絵ばかりを描きだした。「西欧のバタ臭さに辟易した」ともらしたと云われている。東洋的なもの、日本的なものの良さに対する再認識がみられる。小杉放庵ほどではないが、山口薫の『紐』などの作品にも日本回帰が窺えるのである。昭和10年の日本国内は、美濃部達吉の天皇機関説への排撃がはじまり、国体明徴運動がおこり、日本的なものへの回帰、国粋的な全体主義への雪崩現象というべきものが現出していた。文芸文化の領域で、敵性言語の使用や、西欧賛美というか西欧的な作品を作ることさえ憚れたのである。それまで、ほとんど国家公認の憲法学説であった天皇機関説が、本来の国体に反すると否定され、神がかり的な国体論に変わることによって、世論・言論が統制され、天皇を頂点とする唯一の命令系統の全体的統一が計られたことになる。そして翌年、昭和11年の二・二六事件、昭和12年には盧溝橋事件の発生から、日中戦争が開始され、昭和13年の国家総動員法の発令、昭和14年のノモンハン事件、第二次世界大戦の勃発へとつづくのである。こうした全体主義の状況のなかで人々は言論・表現に重い軛を受けることになる。画家たちも同様であった。日常的に、国体という名の渦の中心にあらゆるものが向かわざるをえない排他的な社会現象、運動である。その運動の成員には同質であることが求められ、そうでない異質分子は攻撃・排除されるという社会である。それは大きな統制された意思エネルギーであって一個の生命体をおもわせる。意識するしないにかかわらず、成員たる国民は同質化の道に就かざるをえない。言い換えれば、運動体のゆく同じ方向に逆らえなかった。山口薫の帰国後の戦前は、こうした時代であり、その作品を理解するには背景たる歴史的状況も見なければならない。さて絵画のような美術を、すべて歴史的状況から把握するようなことは慎まなければいけないが、絵画などの美には、絶対的美があるように相対的な美もある。一面は一個独立の美であり、もう一面は歴史的背景をもつ美である。したがって絵画などの作品を理解するには、その作者の置かれた時代背景をみることも必須であるとおもう。ただ美しいだけでは作品の理解にはならない。といって作者の時代背景の理解のみでは真の理解にはならないだろう。むろん山口薫の日本回帰と国体明徴運動による日本回帰は同じものとはいえない。当時の国体の協力者の内実は多様であり、きわめて協力的な画家もいれば、そうでない画家も多くいた。山口薫や周辺の画家たちはどうであったか。作品、『紐』や『銃』、『葬送』などから考えてみたい。

(第13回)

近代に入って、国を挙げての総力戦となった戦争は、国民一人ひとりに多大な犠牲を強いるものであった。国民は生活における物資面のみならず精神面においても国への奉仕および忠誠をもとめられた。維新から昭和20年の敗戦までの7、80年間にわたり日本は、軍備拡張と戦争に明け暮れたといえるが、戦争という負の代価を払った反面、諸制度の整備や社会資本の蓄積(敗戦でまた大きく失ったが)というプラスの収穫もあった。が、その功績はひとえに世界の潮流に添ったものであって当時の為政者によるものではない。為政者のしたことは。被支配の側からみれば、支配側の体制づくりの多方面にわたる地固めにすぎなかった、と言うこともできるだろう。その仕事の一つが国体思想の確立であった。日本は、神の国であり万世一系の天子を戴き、国民はみな神である天子の赤子であって、一つの家族であるという排他的な考え方である。これは神話と儒教の特質と封建道徳を綯い交ぜにした思想といえる。山口薫の生きた戦前は、私の年代では、父母や祖父祖母の生きた時代にあたり、そう遠い過去の話ではない。その時代の遺物(語弊があるや知れず単に事物と言ってもよいが)も、今日幸いにも多く遺されている。山口薫の絵画も当然その一つである。戦前の多くの画家の絵画が遺されている。死して皮を残すは虎の譬えであるが、画家は死して画布を遺すのである。戦争画も多く遺されている。戦争に協力した画家も多くいたし。否応なく戦争に協力せざるを得なかった画家も多くいる。また国や軍部の圧力で表現の場を失って次第に寡作となりついに筆を折った画家も少なくない。維新から昭和20年の敗戦までの戦争画はほとんどが戦争協力画である。軍部の宣伝や戦意高揚に利用された絵画であるとされている。が、多くの戦争画は、もとより字義通り戦争を描いたものであり、軍部の宣伝や戦意高揚の手段とされたにちがいないが、それだけではない。「国体護持」の戦争ための絵画なのである。詰まるところ、この四文字のために捧げられた絵画であったことを忘れてはならない。戦前の昭和の戦争画の多くは、軍の委嘱をうけ戦地におもむいた従軍画家の作品に代表されるだろう。主だった従軍画家および戦争画家として、小磯良平、藤田嗣治、鶴田吾郎、宮本三郎、中村研一、横山大観、児玉希望、川端龍子、山口蓬春、安田靫彦らがいる。藤田嗣治については、パリ画壇の寵児として、また山口薫ら美術学校後輩の憧れの対象として、前々回あたりの稿でも取りあげたが、帰国後の藤田は、パリ時代からは想像できないほどの変容ぶりで、積極的に戦争協力にのめりこんだのである。藤田はこう語っている。「戦争の時には、いい戦争画を作る。それが画家の仕事だと思ふ。記録画を残すといふことだけでなく、どんどん戦争画を描く。それが前線を偲ばせ、銃後の士気を昂揚させる。これは大事なことだ。」と。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』(F200号・東京国立近代美術館蔵)や宮本三郎の『山下、パーシヴァル両司令官会見図』(F150号・東京国立近代美術館蔵)などは、あまりにも有名な戦争画であるから、写真にしても見た記憶をもつ人は多いだろう。前回(12)の稿に「当時の国体の協力者の内実は多様であり、きわめて協力的な画家もいれば、そうでない画家も多くいた。」と述べたが、この画家における戦争協力とそうでなかった者の立場の問題は、今日も問われ続けているといえよう。はたして一億国民の一人として戦争完遂に協力することは正しかったのか。戦争協力者は国民的義務を遂行したまでのことと簡単に免責されていいものなのか。また、「進め一億火の玉だ」「大和魂伊達じゃない」「一人一人が決死隊」「一億が枕を並べて斃れても大義に生きるべき」といった国挙げての精神昂揚のなかで、戦争に非協力な姿勢はどこまで貫けるのか、どこまで批判者あるいは傍観者でいられるのか。この「国体の護持に生きることが大義に生きること」であった時代が、従軍画家らの時代であった。

(第14回)

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そもそも絵画もそうであるが、芸術上の作品に、作家の内なる創作動機という内心の、スタート台なるものがないものはない。内面の創作動機すなわち創作を促がす「内心の弾み」といった動機がなければ作品ははなから存在しない。そして怖ろしいことに、それは作品上に必ず表われるものである。藤田嗣治は「戦争の時には、いい戦争画を作る」と述べた。後世、結果的にその作品が反戦的であると多大評価する者(私も『アッツ島玉砕』に結果的に反戦的なものを認める者であるが)があらわれようと、藤田のある時期の作品のように徹底したリアリズムをもって描かれた作品が、その動機において日本の不敗を願っていたことは、テーマや構成だけからでなく色遣い(タッチ)などからも如何ともしがたく窺えてしまうのである。従軍画家のほとんどが祖国の不敗・勝利を願っていた。国を愛するのであれば不敗・勝利を確信し、敗けることなど思考の埒外(非協力者は非国民とされた)であった。しかし反対を意思表示すれば存在を否定された時代であっても、戦争反対だけでなく敗戦まで願っていた者がいなかったとはいいきれないであろう。真に愛国的なるものが祖国の敗戦を願うことは論理的にあり得ることだ。日中戦争から太平洋戦争へと戦争を拡大していく祖国日本を、今日あまり多く語られないが、冷静にながめた人の国内に多くいたことは事実である。そうした人の存在は、長い軍国主義教育の中でさえ、また「国民精神総動員」の絶叫・雄たけびのさ中でさえ、自由主義の根は涸れていなかったことを証明することである。その自由主義の種が、大正期に播かれた大正デモクラシーでなかったと誰が断言しえようか。明治後半に生まれ、大正期の比較的民主的であった時期に青少年期の教育を受けた、山口薫らの世代が戦争をどう見ていたかは興味のあるところである。山口薫が、従軍画家に対義する意味の反戦画家であったというのではない。戦時の山口薫の絵画を見るかぎり、戦争賛美や戦争協力をうかがわせるものはないだろうというのである。たとえば敗戦前年の昭和19年の文部省戦時特別美術展覧会に出品された『苔むす巌』という小品。これはF6号という小ささであるが、描かれているテーマは日本を代表する富士山と一つの岩塊であるが、岩塊は題から分かるように国歌『君が代』の一節に基づいている。戦時色の濃い絵という見方もあるが、戦時を思わせるものは強いていえば「霊峰富士」と題「苔むす巌」のみであって、わざわざ題を「苔むす巌」として時流に合わせ、戦時色の濃い絵に仕立てたと言うほうが、より正解とおもう。何をいおうと「国民精神総動員」や「聖戦貫徹」や「一億総玉砕」の掛け声のもと天下の文部省推奨「戦時特別」展覧会である。この展覧会の規模や内容については調べていないので分からないが、民主的なものでないことは勿論、平和的でも作品本位の展覧会でもなかったことは、遠く74年経た現在から見てもあきらかであろう。日中戦争が始まった昭和12年に山口薫が所属した「自由美術家協会」は結成された。そして、この会は太平洋戦争の始まる前年の昭和十五年には、「自由」という字句が憚れて、その名称を「美術創作家協会」に改称する。わずか三年の間に「自由」が「創作」に変わったという一事をもっても分かるが、画家たちも時代の圧迫すなわち国体の軛に縛られていたのである。「自由」という言葉から当時の日本人はどのような「こと・もの」を連想したのだろうか。子供たちまでが「自由」という言葉を忌避したのだろうか。因みに自由の対義語は「専制、統制」「束縛、窮屈」である。自由な創作を必要とする芸術上の諸活動が、社会を統制する側からつねに危険視されるのは、近現代の通例であり特徴である。支配層は身内の自由には寛大であるが、被支配層が自由を満喫することは見逃せないのである。欧米のルネッサンス以後の芸術活動は「自由」を知り、その受容を追求する主体的な活動であった。日本の近現代の芸術活動もその欧米の影響下にある。以上を踏まえた上で、いま一度、作品『苔むす巌』を見直すとまた違った見方ができる。

(第16回)

作品『紐』や『銃』、『葬送』などから山口薫の指向するところを鑑みて作品『苔むす巌』をみると、ひとつ結論に達し得るとおもうのである。画面の巌は、故郷烏川の「赤石」と思われ、山口薫は生涯よくスケッチし作品にしている。恐らく、この作品の一つの、左上に取ってつけたような富士を置いたのが『苔むす巌』なのである。富士はそれなりの画面の調和の上に置かれているが、富士を除いた方が、絵としては、6号という小さな画面ではむしろ相応しいといえるだろう。作品として調和の上に描かれているが、余分なものとしか考えられない。真に作品鑑賞の上からは、その余分なものは見れば見るほど可笑しみさえ醸し出すものであって、どうして富士をここに置いたのかは謎めいてくるのである。先にも述べたように、文部省推奨「戦時特別」展覧会に出品された絵であり、題からして国歌『君が代』の一節「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」から名づけたものであろうが、繰りかえし述べるが、霊峰富士は日本のシンボルであり侵すべからざる国体を意味し、それを画面に置いたのである。であるから、横山大観の富士でいうところの『乾坤輝く』であり『神州第一峰』なのである。私が密かにおもうのは、この謎めいた、国から依頼を受けて出品した由縁を考える時、山口薫はすでに描き上げていた「赤石」のモチーフに、単に霊峰富士を付け足したのではないかという推測である。これはあくまでも推測の域を出ないが、そのような気がするし、その富士の付け足し行為は、山口薫らしい茶目っ気の発現であるようにもおもえる。また大袈裟になるかも知れないが、そこに反戦の意思の存在さえおぼえるのである。昭和十四年の作品『紐』には古典的な日本回帰が静謐のなかに窺えるし、昭和18、19年の作品『銃』、『葬送』などには静謐な画面に加えて、どこかしら悲しみの哀調が根底におかれている。その言うに言われぬ静かな悲哀の色調は、裏がえせば平和や反戦の希求といってもいいだろう。戦時中の山口薫の作品には「国威発揚」「戦意高揚」といった雰囲気をもっているものは知るかぎり皆無である。その点、同じ群馬県民であり戦後生まれの私にとって、山口薫は誇りにしてよい存在である。福沢一郎は反戦思想の疑いで拘留され、また塚本茂は軍の発注をうけた戦争画でありながら「『千人針を縫う』の画題をもって戦争協力のモティーフとした云々」と戦争協力をしたくなかったと言わんばかりの言をみずから記している。私はその反骨精神に敬意を表しその画風を愛する者であるが、山口薫についても同様である。もし県民性というものがあるとすれば、それは内村鑑三の『上州人』ではないが、剛毅朴訥の才質と唯正直を以って万人に接すといった姿勢を美術家たちにも共有しているといえるだろう。次回からは、福沢一郎について考えたいとおもう。

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昭和50年群馬県立近代美術館発行『山口薫展』、昭和56年3月発行みやま文庫81巻『群馬の近代美術』、昭和57年『群馬県立近代美術館所蔵品目録』、昭和58年『近代美術にみる群馬―描かれた郷土』、昭和60年群馬県立近代美術館発行『山口薫展』、平成20年群馬県立近代美術館発行『山口薫展』、平成21年8月発行みやま文庫195巻、黒田亮子著『山口薫』、平成21年9月群馬県立近代美術館発行『群馬の美術1941―2009』等、他

川隅路之助ギャラリー | 街の小さな美術館 | 群馬県前橋市【公式】

群馬県前橋市にある川隅路之助ギャラリー公式サイトです。川隅路之助ギャラリーには群馬美術家連盟を創立し春陽会会員として春陽審査員を長く務めた川隅路之助の作品を多く収蔵しています。また、群馬県は多く芸術家を輩出しています。小さいギャラリーですが気軽に立ち寄り絵を見てもらい、群馬の美術について多くの方に知ってもらいたい。川隅路之助ギャラリーは今までもこれからも群馬県そして前橋市に美術で貢献していきます。

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