山口薫の育った時代背景をみる上で、貴重資料の一つに本人の絵日記がある。これをきちんと本にしたものが、山口薫の甥にあたる(といっても2歳しかちがわない)北橘村の今井善一郎によって、氏の手許にあった絵日記を、いろいろと経緯はあったようであるが、前橋市の煥乎堂から昭和44年に刊行された『山口薫中学時代絵日記』である。その内容は大正11年(1922年)、高崎中学時代の、15歳の6月15日から11月6日までの絵日記と「カゴノ小鳥 第二號」と題された画文集からなる。絵日記はほとんど黒の単色であり、画文集は多色である。大きさは横18センチメートル縦12.5センチメートル、最初に1948年作の『箕輪城址』という油彩の写真と「あとがき」や註等で150数ページほどの小冊子である。因みに実物の大きさは凡そ二割方小さいようである。
「カゴノ小鳥」の制作年は記載されていないが、本の題名通り中学時代のものであろう。絵だけで比較すると画文集の方が優れていると思う。足利の田崎草雲の少年時代の絵日記などに比べると、技量の点で見劣りするが、この絵日記にも少年らしい溌剌とした生気がじゅうぶん感じられる。一つに絵を描くことが好きな利発な少年がイメージされるが、この絵日記をざっと見た後の印象はそれだけに止まらない。その時代背景に思いを致すのである。この絵日記の11月5日(日)晴、の段に「今日ハ帝展見ニ往ッタ。公会堂デ知ッタ前中ノ中村ッテイフノモ来テヰル。向フデモ此方ヲ見タ。白木屋へ行ッテ晝飯ヲ食ベ、浅草ノ金龍館ヲ見ニ行ッタ。」とある。この中で、帝展とは帝国美術院が主催した官展。公会堂とは高崎公会堂。前中ノ中村ッテイフノモとは前橋中学の中村節也。白木屋とは東京日本橋の白木屋デパート(当時から飲食店が併設されていた)。浅草ノ金龍館とはオペラ、レヴュー、軽演劇の実演、活動写真の上映等の演劇場のことである。金龍館の大正11年当時の興行主は根岸興行部で後に松竹となったが、この年にエノケンこと榎本健一がコーラスボーイとしてデビューしている。高崎公会堂では創画研究会による展覧会がよく行われていた場所である。前橋中学の中村節也は明治38年11月生まれで中学入学は大正ハ年、高崎中学の山口薫は明治40年8月生まれで中学入学は大正9年である。中村節也は一家の転地で高崎の柳川町の住まいから前橋に通学していた。二人はすでに絵の展覧会で顔見知りであったのである。これより5年前の9月、前橋中学において開催された「白樺画会展」は住谷三郎らによって企画されたことは前にも述べたが、この3日間の展覧会なども大正という時代背景を抜きにしては考えられないのである。遅れて高崎の創画研究会による展覧会も、大正時代の群馬における美術の先進性を示すものである。大正時代の息吹を吸い込んで、この時代の若者たちは成長している。昭和の時代とは明らかに一線を画していることを、ベースボールやテニス、友人たちや先生方、試験風景やごく日常的な些事が描かれた山口薫の絵日記は、大正デモクラシーという時代の風潮を生の空気として伝えてくれる。先生方の中には、歌人土屋文明の恩師である村上成之(あだ名をチョクと云ったらしい)もいた。
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